バイクとは

原動機を搭載した二輪車であります。モーターサイクルとも呼ばれ、英語圏ではこれに相当するものをmotorcycle(モーターサイクル)やmotorbike(モーターバイク)と呼ぶのが一般的です。日本語では「単車」、「自動二輪車」とも呼ばれています。2つの車輪を前後に配置して、ガソリンエンジンや電気モーターといった原動機によって走行する乗り物を指します。自転車に原動機を備えたもので、原動機の動力のみで走行することができるものも含んでこのように呼ぶこともあります。基本的には二輪のものを指しているが便宜上、サイドカーを備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた三輪車も広義の「オートバイ」に含める場合があります。オートバイという呼び方はアメリカ英語(autobike)に由来する和製英語です。1902年(明治35年)にアメリカからエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていましたが、1923年(大正12年)に月刊誌『オートバイ』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになりました。日本語では他に「自動二輪車」「単車」「バイク」とも呼ばれています。「単車」はサイドカーを付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていましたが、サイドカーが希少なものとなった現在も「単車」という言葉が生き残っています。なお、中国語でも二輪車の意味で単車という言葉が存在します。
英語で単にbike(バイク)と言うと二輪車全般を指すものの、どちらかというと自転車 (bicycle)の略語として使われる場合が多く、自動二輪車については「原動機」を意味するmotorを加えてmotorbike、あるいはmotorcycleと呼ばれることが多いです。 1988年に出版された百科事典では「日本では…(中略)…、またスクーターはオートバイの範疇に含めないのがふつうである」と書かれましたが、2012年現在では様々な文献やメーカーのホームページにおいてスクーターもオートバイの範疇に含まれるように変化しました。2012年現在のオートバイの車両区分は、主に道路交通法で定められた免許区分である排気量やギアチェンジの有無による区分を用いるのが一般的ですが、四輪と二輪を両方製造するメーカーの場合、それら二つで大別することや、コンセプトとしてスポーツ性を持たせたスクーターなどを開発した場合、他のスクーターと別記載し差別化する事もあり、様々です。

バイクの歴史

1863年にフランスの発明家のルイ-ギヨーム・ペローが蒸気機関を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、1873年のウィーン万博に出品したものがオートバイの原型と言われています。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた鉄道、自動車、船舶に対してオートバイや飛行機は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのはゴットリープ・ダイムラーによって内燃機関の発明がなされてからのことでした。1883年に最初のガソリン機関の製作に成功、1885年に特許取得、1886年に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げました。この排気量260cc、4ストロークエンジンは、出力0.5ps、最高速度6~12km/h程度のものでした。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術であるスポークホイール、チューブタイヤ、ベアリング、チェーン、スプロケットやハンドルといった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすいといった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらきました。
20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、インディアン、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立されました。現存するメーカーによる製品の例としては、1903年、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業されたハーレーダビッドソン社が発売した、自転車にエンジンを搭載したモペッドがなどが挙げられます。
活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、ライト兄弟によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要しました。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかったのです。なかには、フランスのアンザーニ社などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものもあらわれました。アンザーニ社が開発したW型三気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだブレオリ単葉飛行機は1909年にドーバー海峡横断に成功しました。 1907年には競技会としてマン島におけるオートバイレースが開催されており、そこではデイ式2ストローク機関エンジンの小型化に適した特性を利用したスコット式2ストロークガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めました。
飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイでありましたが、直後1914年に発生する第一次世界大戦において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったためにその立場を逆にします。オートバイから転用された諸々の技術は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるようなかたちでオートバイに再転用されることとなりました。
それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーターという自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていましたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品制度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況でした。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけでクラッチや変速機、フロントブレーキも装着されていなかったため、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求されました。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものでありました。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著でありました。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であったのです。
その後の第二次世界大戦では、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用されました。

バイクの日本史

日本における最古のオートバイの記録としては、1898年に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されていますが、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下、目覚しい勢いで国産化のすすめられた産業を尻目に特別な注力がなされる事はなかったのです。そのため、僅かながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎませんでした。
1909年に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造し、その後1910年には山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリスのトライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立、1917年には大倉商事がハーレーの輸入を開始を開始しました。しかし、その後島津楢蔵は一度航空業界に転身、帝国飛行協会でのコンテストに出品した9気筒回転型空冷80馬力エンジンで見事1等を受賞するなどの実績を残したました。だが、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった三井物産で取締役を勤めた山本条太郎の助言を受け自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年に閉鎖の憂き目にあいます。こうした紆余曲折を経た後、オートバイ開発に復帰、航空業界で培った技術を応用し3年後エーロ・ファースト号を完成させました。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現したのです。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化や不況や影響から計画は難航し、1930年には廃業を余儀なくされてしまいます。結局、日本で始めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは、1914年に宮田製作所が製作し、一部が警察に納入され黒バイと呼ばれていた車両を発展させたアサヒ号A型が発売される1933年のことでありました。この車両は2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5ps。翌年1934年に増加思索13台、翌々年1935年4月から量産体勢に入り、売値は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937~1939の期間に月産150台を製造していました。
以後、大戦下の日本で陸王のみが生産されるようになるまでには、陸王の他にアサヒ号を代表として、JAC号、SSD号、あいこく号、キャブトン、リツリン号、くろがね号、メグロ号などが存在していました。
戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、こうした状況下でオートバイは陸王内燃機でのみ製造されていました。同社は1931年に三共の系列企業で、ハーレーの輸入販売を行うハーレー・ダビッドソン販売所として設立されました。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー工場へ設備調達のため渡米します。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えるなどの助力の結果、1935年に国産ハーレー第一号は品川工場で完成したました。陸王の名称の由来は、こうして国産ハーレーの製造に奔走した永井信二郎の母校である慶應義塾大学の若き血のフレーズに因んでつけられたといわれます。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年から製造を行っていた97式側車付き軍用オートバイは1943年には月産90台程度製造されていましたが、戦争末期には月産50台がせいぜいでありました。
第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業が航空機や自動車の製造を禁じられたため、所属していた技術者達はその技術を生かす場を求めていました。1945年当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターが陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、解体、平和産業へ転換させられた富士産業の技術者の目に留まり、材料が十分に確保できない状況で作れる製品としてその簡素な車体が関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入しだしました。開発をはじめたものの材料不足は深刻で、一時海軍機である銀河の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用するなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られました。 こうして1946年の夏に試作機が完成、同年11月からラビットスクーターS1として発売されたのです。定価11000円程度であり、これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなったのです。
それから半年後、三菱を源流に持つ中日本重工(戦後の財閥解体にともなう三菱重工の分社)はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧でありました。ラビットが好調な売れ行きをみせ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年に日本小型自動車工業会が発足し、GHQや官庁との交渉を経てさまざまな規制撤廃に成功。オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れました。 新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かったのです。
一方、スクーターに手が出なかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーターを発売、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジンをベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年に発売します。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始ししました。
群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年頃に復活しだしたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていました。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、後に公道で行われるようになっていました。まず口火を切ったのは1953年3月21日に行われた名古屋TTレース、浜松静岡間レース、富士宮市浅間神社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになりました。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、見事125ccクラスで上位を独占するといった功績を残しました。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出したのです。
当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的の他、海外のオートバイに追いつく技術開発をすすめる場としても活躍しました。
こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別がはじまりました。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要は無くなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けたました。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きかったです。戦前においてはアメリカンが人気でありましたが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れました。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれるはずもなかったのです。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくありませんでした。目黒製作所が1960年に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなりました。
こうした過当競争は当然、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていきます。1958年に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮、なおかつ55000円の低価格、加えて当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えました。他の有力メーカーはこれに対抗し、同価格帯で対抗車種を販売、あるいは対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされました。
1959年、この勢いそのままにホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを引っさげ、自動車レースの草分けであるマン島TTへの参加を表明、1961年には優勝を達成します。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間でもありました。ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いでロードレース世界選手権へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化します。翌1962年には国内初の全面舗装のサーキットである鈴鹿サーキットが完成、ロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制します。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たしました。
しかし、モータリゼーションの到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになっていきます。
1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争が起きました。この競争のなかでラインナップが増えると共に価格が下落し、さらに1980年代後半からは好景気(バブル景気)も重なり、1990年代前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族が全国各地で増え、危険走行や騒音、交通事故が社会問題となったのです。それによって三ない運動に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、バブル景気の崩壊と共にバイクブームも急速に終息に向かいました。
1990年代は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大する一方、2000年代には日本国内向け車種の生産も始まっています。
近年の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化にともない、ピーク時に対して1/10という市場の大幅な縮小がおこりました。趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強いです。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されています。

バイクの基本構造

バイクの構造はその歴史のなかで様々な形態が現れ、変遷してきました。ここでは現在市販されている二輪のオートバイとして一般的なものを示します。したがって、いくつかの車種には例外があり、特に三輪のものについては構造が大きく異なる例もあります。
バイクの構成要素を機能で大きく分けると、フレーム、エンジン、クラッチ、トランスミッション(ギアボックス)、タイヤホイール、ブレーキ、サスペンションなどに大別されます。
前後輪の役割としては前輪操舵・後輪駆動が一般的であるが、前輪が操舵と駆動の両方を担うものもあります。エンジンの位置は前輪と後輪の間に搭載されるものが一般的です。前輪駆動のものはフロントホイール内(インホイールエンジン)やフロントフォークに搭載されます。エンジンが発生した出力はまず1段減速された後に、クラッチを経て変速機に伝えられます。

エンジン
スクーター以外のオートバイのエンジンは通常、車体フレームに固定されています(無断変速式のスクーターについては、変速機と共に後述する)。チェーン又は歯付ベルトドライブ(駆動)のものはクランクシャフトが車体進行方向に対して横向きになる配置に搭載されています。一方、シャフトドライブの車種の多くは縦向きを採用しています。前者のうち直列エンジンは、二輪車特有の表現である「並列エンジン」(へいれつエンジン)と呼ばれています。
駆動系
スクーター以外のオートバイでは、運転者がクラッチの断続と、速度や負荷に応じたギアの組み合わせを選ぶ、マニュアルトランスミッション車がほとんどで、マニュアル車やミッション車とも呼ばれています。この他ごく少数ではありますが、トルクコンバーターを用いたものや、湿式多板クラッチを用いたオートマチックトランスミッション車があります。
クラッチは、エンジンオイルに浸されていて複数の摩擦面を持つ湿式多板クラッチが採用される場合が多いですが、競技車両やイタリアのドゥカティが製造する一部の製品で乾式多板クラッチが、BMWの水平対向エンジン車やモト・グッツィなど、縦置きエンジンの車種で乾式単板クラッチなどが採用されている例もあります。
オートバイのトランスミッションは四輪車の場合と異なり、エンジンのクランクケースと一体になったケースに収められている場合が多く、4ストロークエンジンの車種ではエンジンオイルがトランスミッション(と湿式多板クラッチ)の潤滑を兼ねています。トランスミッションは4段から6段程度の変速段数を持つ車種が多いです。
トランスミッションから車軸へ動力(トルク)を伝達する手段にはローラーチェーンを用いる車種が最も多いが、プロペラシャフトや歯付ベルトを採用している車種も少なくありません。
足回り
ホイールは、アルミダイカスト製のホイールを採用しているモデルが多いが、伝統的な外観を演出するためにリムとハブをスポークで固定したスポークホイールを採用する車種も少なくありません。
かつてのブレーキには自転車同様のバンドブレーキやリムブレーキも見られましたが、すぐに自動車と同じ仕組のドラムブレーキがそれらに取って代わりました。ドラムに対するブレーキシューの向きで自己サーボ効果を発揮する方向が異なるため、フロントをツーリーディング、リアをリーディング&トレーリングとする組み合わせが多いです。1970年代末にはスポーツ車からディスクブレーキが普及し初め、以降その割合が増しています。
サスペンションは、走行中に路面からの衝撃を吸収させ、車輪をつねに路面に接触させ、操縦性・安定性に寄与しています。前輪がテレスコピックフォーク、後輪がスイングアームになっているものがほとんどです。
操作系
運転操作用のグリップやペダルの役割は、右グリップがスロットル、右レバーが前ブレーキ、右ペダルが後ブレーキ、左レバーがクラッチ、左ペダルがギアチェンジという構成が現在では一般的です。ただし、イギリス車では伝統的に右足でギアチェンジ、左足で後輪ブレーキ操作を行う車種が多く、一時期は燃料タンクの左脇に手で操作するシフトレバーがある車種も多いです。
スクーター
現在のスクーターのほとんどが、変速と動力の伝達に、可変径のプーリーとVベルトを組み合わせた無段変速機を採用しています。この変速機構とVベルトのケース自体がスイングアームを兼ねており、エンジンもその支点付近に一体化された「ユニットスイング」式が一般的となっています。
変速機には上記の他、マニュアルトランスミッションやトルクコンバーターを用いたものもあります。
操作系については、日本製一般的な現在のスクーターではペダルが無く、右グリップがスロットル、右レバーが前輪ブレーキ、左レバーが後輪ブレーキです。
ピアジオやランブレッタに代表されるマニュアルトランスミッション車は、右グリップがスロットル、右レバーが前輪ブレーキ、右ペダルが後輪ブレーキ、左レバーがクラッチ操作と、ここまでは一般的なオートバイと同じでありますが、変速操作のみは左グリップの回転で行います。 ラビットなど、旧来のオートマチック車は左レバーが無く、後輪ブレーキ用右ペダルを持ちます。